ウミネコサウンズ『夕焼け』

夕焼け

夕焼け

ある方からサンプルCDをいただいたので、宣伝がてらちょっと書いてみようと思う。

こんな事を書くと読者諸兄から「ややっ、キサマ音楽レーベルの手先だな!チョウチン記事ばかり書きおってけしからん!!」なんて怒られそうだが、考えてもみてほしい。この多様化かつ細分化された情報化社会、何が広告で何がヒヒョーなのかなんて誰にもわからないじゃないか。「騙された!」だなんて、体の関係は持ったけど付き合うのはムリって言われちゃうヘタレ男子じゃないんだからサ*1

送り手がああだこうだ考えながら提出したものを、受け手は好きに選べばいいのだ。佐々木敦の受け売りだけど、色んなものが並列・同時にある世界をこそ、ぼくはあるべき姿だと思うよ。ぼくはこのCDがとっても素敵だなと思ったから、素直にそう書く。

ミニアルバムのタイトルにもなっている一曲目の「夕焼け」。これが文句ナシに素晴らしい。穏やかなAメロBメロと来てサビで一気に爆発。「奇麗なあなたに/見とれているうち/100年ぐらいすぐに過ぎてく」という歌詞通り、ちょっとでも気を抜いて聴いているといつの間にかサビになっていて、次の瞬間には曲が終わっている。あれれれ?なんて思いながらまたぽーっとしてると、アルバム自体もあっという間に終わってしまう全5曲約18分。これまた良い具合に「次の作品も早く聴きたいなぁ」なんて欠乏感を煽る収録時間。

プレス資料には「USインディーの影響が〜」なんて書かれている。こういう文句がついている、しかもそのアーティストが有名でない場合、大抵それは「小さな音楽」の言い換えだとぼくは思う。

「小さな音楽」あるいはその反対の「大きな音楽」という分類はぼくが勝手に使っているだけなんだけども、「大きな音楽」というのはメロディ重視の売れ線万人向け音楽というか、郊外のショッピングセンターで流れるハーモニカでアレンジした安っぽいインストバージョンでも「あ、あの曲だ」なんて聴けてしまうアレである。
対する「小さな音楽」というのは、一聴しただけではサビのメロディーラインが覚えられず、豪華なストリングスもなければ広がりのあるディストーションサウンドでもない、小さなライヴハウスで聴くとまるで自分のためだけに演奏してくれているかのように聴こえる音楽と定義してみよう。

ウミネコサウンズがすごいのは、「大きな音楽」のような必殺メロディを持ちながら、「小さな音楽」ファンの視聴にも耐えうる「お、こいつわかってるじゃん」感をも兼ね備えているからだ。
この感覚は、○○の影響がなんつって固有名詞を出しても知らない人には何/誰ですかそれ状態になってしまうので、説明がけっこうむずかしい。だからあえてしない。聴けばわかる。あと今月の「MUSICA」のディスクレビュー欄で同じようなことを鹿野さんが1ページに渡って書いてくれているから、そっちとこれを読み比べるのも面白いと思う。音楽ファンは誰しも「世界がそんな素晴らしい音楽に溢れていればいいのにな」と思っているものの、その両立はとんでもなく難しいし、更に売り上げまで気にしはじめるともう雲をつかむような難易度になってしまう。だから、そういった音楽に出会えた時はここぞとばかりにそのクリシェを使いたくなってしまうのだ。

でもまぁ結局のところ、ぼくの文章なんて必要ない。言葉が音楽に対してできることは、その「聴けばわかる」という真理へ向かう過程の、「聴く」という動作への動機付けしかないのだ。ぼくは彼のように素敵な音楽を作ることはできないから、それをできるだけでもとってもうれしい。

古里おさむの軌跡 ウミネコサウンズインタビュー - インタビュー : CINRA.NET

*1:まぁ、自分のことである

BUMP OF CHIKEN『jupiter』

jupiter

jupiter

高校時代、童貞で、今よりも更に情けなかったぼくは、BUMP OF CHIKENがキライだった。あんなのロックじゃねーよ。ぷんぷん。

大体なんなんだあれは。サッカー部のイケダくんもバレー部のアリマくんも、演劇部で一緒だったカナモリさんもトミタさんもバンプパンプ。猫も杓子も運動部もオタクもみんなお気に入りに挙げていたバンド。
もし彼らがキライだなんて言おうものなら、「バンプをバカにするなんてサイテー」なんて具合に非国民のレッテルを貼られる。教室の隅にうつぶせになって最大音量でナンバーガールのMDを聴くハメになる(最大限の「オレのセンスイケてるでしょ?」アピール)。そんな「伝統的な、そして何かを大きく間違った学園生活」をぼくはエンジョイしていたのだ。

その頃ぼくが読んでいた『ロッキン・オン・ジャパン』は毎月彼らを取り上げた記事を載せていて、さながら「月刊パンプオブチキン」といった状態になっていたことがイライラを余計に募らせた。今はどうだか知らない。もう読んでないからね。やっぱり『ミュージック・マガジン』これだよ。J-POPもアングラも、国内も海外もほどよいバランスで掲載するのがいいよね。元文化系みたいなおっさんにも意外に話が通じるし、ビジネスパーソンにもオススメ。右手に日経新聞、左手にミューマガ。あんまり近寄りたくないサブカル社会人一丁おまたせしました!!

振り返ってみると、中高生だろうが大学生だろうが社会人だろうが、その時々の「音楽を深く掘り下げて聴かない人」たちにウケるアーティストとのはなんとなく決まっている。そして同時に「あんなのロックじゃねーよ」というヒネクレ者たちも一定数存在しており、彼らが聴いている、音楽好きにはメジャーだけど一般的にはマイナーなアーティスト――その多くは前述の『ロッキン・オン・ジャパン』によく取り上げられることから「ロキノン系」と呼ばれる――もなんだかなぁなんて思ってしまう音楽オタクどもは、バンドを始めるか2ちゃんねるでの終わりなきセンス闘争に身を置くか、ブログにうだうだオナニー文章を綴ることしかできない。

ぼくがどの選択肢を選んだかというと、つまりこういうことである。はははっ。「これで満足かい?」と「ぼく」は当時のぼくに問いかける。肯定でも否定でもない、苦笑いするしかない表情。サークルの新歓コンパで、髪がもっさりした先輩から酒を勧められて「飲めないんですぅ」だなんて言う時の女の子みたいな感じで。あいつまじうぜーよ。アルタ前で彼女はやたら細い煙草をぷかぷかさせる。ケータイには彼氏からのメール。「今何してんの?」いつもこの一文だけ。お前それしか言えないのかよ。「今日はもう眠いな。おやすみっ」と絵文字だらけのメールを返信して、深いため息をひとつ。
「オトコノコなんてバカばっか」

そんなどこにでもあるテニスサークル話よりも、バンプの話である。
高校で同級生だった彼らは、口を揃えて「バンプは歌詞が物語っぽくていいんだよねー」と言っていた。

失ってしまった「あのころ」をもう一度観ようと望遠鏡を覗きこむ二人(天体観測)、命を賭けて友達を守るライオン(ダンデライオン)、立ち止まって初めて見える「日常」の愛おしさ(ベンチとコーヒー)。「絵本のような世界観を作りたかった」というギターボーカルの藤原はその後自作の本を出版することになるし、ファンタジー系のゲームやマンガの主題歌を手掛けていく。彼(ら)にとって、「ロック」というフォーマットはあくまでも手段でしかないということか。

彼らの魅力は、3rdアルバム『orbital period』に収録されている「カルマ」という曲に凝縮されてしまうと思う。

この曲は「テイルズオブジアビス」という、剣と魔法のファンタジーRPGの主題歌で、スタート画面のまましばらく待っていると、アニメのオープニング風の映像に合わせて流れる。
前半で味方が一通り出てきて、中盤で敵キャラが登場、サビ部分では敵との大立ち回り。これはポップスにおけるAメロ→Bメロ→サビという展開と同様であり、ありがちだからこそ快楽性は確かなものがある。展開が全てわかっていても、思わず手に汗握ってしまうハリウッド映画のように。インディー時代の人気曲「K」は、黒猫が死んだ主人の恋人宛ての手紙を様々な苦難を乗り越えて届けるという歌詞だったが、ネット有志の手でFLASHアニメ化され、オタク層にも「逆輸入」されていった。

そういった音楽はそれこそアニメソングのフィールドではいくらでも確認することができるが、それを「ロックバンド」という、オタクっぽくない=クラスでも堂々と好きと言える体裁でやったのがヒットの要因だろう。そんな小さなことで、と思うかもしれないが、良い音楽をやっていれば売れるわけではないJ-POPだからこそ重要なポイントである。
萌えオタクの人たちは、自分が恋い焦がれる女性キャラクターへの思いを散々ぶちまけた後に「これは、ただの絵だ」と気づいて絶望するらしいけど、ロック音楽だって「ロックじゃない」ロック音楽だって同じなんだ。

これは、ただの音だ。
何をもってしてロックだのロックじゃないだのとするかなんて、「ただの音」にとっては何の関係もない。

この文章のタイトル「J-POPについて考える」というのはつまりそういうことで、「音楽」そのものよりも、音楽にまつわるあれこれに関してできる限り綴ってみる試みである。歌が入っていようがいまいが、「純粋に音そのものだけを楽しむ」という行為でさえ、「ただの音」を聴いたぼくらの事後的な感想であり、その愉しみを綴るためには音楽以外のあらゆることについて触れなければならない。そして、その行為は「ただの音」から遠く離れたイメージを植え付けてしまう。佐々木敦が『批評とは何か』における音楽批評の部分だけ「音楽批評の困難」という項目から始めるのはそういうことなのだ。

「音楽について書くのはどういうことなのか」ということを、「良い音楽をやっていれば売れるわけではないJ-POP」というよくわからない音楽と一緒に考えてみたいのである。

シャムキャッツ『はしけ』

はしけ

はしけ

SIAMESE CATS | Listen and Stream Free Music, Albums, New Releases, Photos, Videos

シャムキャッツ 1st album 「はしけ」

本当に素晴らしいバンドに出会ってしまった時、「このバンドはあのバンドの影響があって、ここの要素がいいんだよね」なんてことをしたり顔で言えなくなってしまう。
とりあえずぼくにできるのは、このバンドがいかに好きかということをこれでもかと書いて、あとはより多くの人に聴いてもらえることを祈るばかりである。ここ数年、そんなバンドに出会う機会がどんどん増えてしまっているので、迎え撃つ側としてそのスピードに追いつけるよう書き続けるしかない。

ぼくらはもうライヴハウスなんて狭い空間に閉じこもって、内輪ノリに満足し続けてる場合じゃない。侵攻は既に始まっている。あいつらがぼくの好きな音楽をオモチャにして消費し尽くす前に、その音をきちんと言葉にして存在を明らかにしておかなければならない。

そんなわけで、これからシャムキャッツというバンドを絶賛する。
昨日も会社の昼休みに都内某所のベローチェに入って、『橋本治内田樹』を読みながら聴いてたよ。すんばらしいね。シャムキャッツ。みんなも聴くといいと思う。
惜しくも休刊となってしまった『cinra magazine』の最終号に収録されていた「忘れていたのさ」を聴いて、「ああっ、やられた!」と思わずにはいられなかった。アコースティックギターと木琴、ドラムに鈴、そして良い意味で噛み合っているのかいないのかわからないコーラスが織りなす、NHKの「みんなのうた」で小学生が演奏して歌っていてもおかしくなさそうな優しい音色のポップス。そこで歌われるのは、吉祥寺や高円寺、両国にお茶の水といった、どちらかと言えば中央線寄りな東京のなんでもない風景たち。

彼らは、Clap Your Hands Say Yeah以降のローファイであることに思想性という名の押しつけがましさがないゼロ年代型USインディポップサウンドに、はっぴいえんどサニーデイ・サービスの歌う「古くて新しい東京の風景」観を見事に更新させた歌詞が乗るバンドなのである。

1、飽きるまでじゃれあって
2、しばらくダニー・ハサウェイを聴いて
3、思い出してまたやって、を
4ヶ月以上繰り返した

これは彼らの代表曲の一つ「アメリカ」の歌詞だが、これだけ見るとさっきの「東京」の話はどこへやら。日本をすっ飛ばしてアメリカに行きたいという歌なのだが、行きたい行きたいと言うだけで「まだやりたい/君とまたやりたい」「でもまたきっとを繰り返すのさをまたずっと繰り返すのさ/おえ〜(嘔吐)」と続いていく。結局「やること」を巡る話にすり変わっていく。
ヤりたいんだかヤりたくないんだがはっきりしろ、という話ではあるが、ぼくもほとんど同じような経験をしたことがあった。直後に聴いていた音楽がダニー・ハサウェイではなくレディオヘッドだったぐらいで。これが「文化系草食の皮をかぶった肉食男子(笑)」のリアルなのだと勝手に定義したい。

そんなぐだぐだな恋愛ごっこが行われている場所が、彼らにとって東京だったのだ。作詞作曲を担当する夏目智幸(水分くんに先日紹介してもらったけど、可愛い彼女を連れた素敵なおにーさんでした。ぜひまたお話したい)はアルバムについて、フライヤーにこう記している。

ないものねだりの青年四人でバンドを組みました。
東京にはなんでもあるのにたまにすごく退屈します。
退屈に耐えられずなんでももとめると結局は退屈がほしくなったりします。
そういう日々の中でどうでもないことが沢山おこります。
そのどうでもない出来事が急に踊り出すときに出来た曲が10曲、はしけに入っています。
今日からは曲が流れたときに退屈が踊り出したらいいなと思っています。


デベロッパーによる地方開発が進み、郊外にもそれなりにショッピングセンターやシネコンが出来た現在、もはや東京という街が誰にとっても「なんでもある」場所とは言えないかもしれない。けれど、確実に言えるのは、誰もが「なんでもあるという幻想を持っている」場所だということだ。
スーパーカーが「PLANET」で自らの故郷を淡い思い出=名前のある場所として「青い森」と歌ったのはもう10年前だが、デベロッパーの開発は結果として地方の東京化=均質化=匿名化を生み出し、消去法的に地名から連想される具体的イメージを、現在進行形で持ち続ける街が「人の個性を消す」はずの東京のみになってしまったのだ。

けれど、ぼくも話をひっくり返してしまえば、やっぱりそれは「東京」でなくてもいいと思う。

実際に東京を、日本を飛び出して北京に行ったとしても、思うことはやっぱり「チャイナは桃色/君が着るなら/どこへでも/君と行くなら」(チャイナは桃色)ということなのだ。
その「日常のディティールをこそ愛する」というテーゼは2000年代に入ってから、映画なら『リンダリンダリンダ』や『天然コケッコー』で、アニメなら『涼宮ハルヒの憂鬱』〜『らき☆すた』〜『けいおん』という一連の京都アニメーションのそれの中で何度も何度も言われてきたことではある。

しかし、ぼくがシャムキャッツをそれらよりすごいと思うのは、「今日子ちゃんの浮気相手のあいつの彼女のゆみちゃんは/最高だねって言ってサニーデイ・サービスのCD聞いてる」(今日子ちゃんのうた)だなんて切なくも情けない風景を、俳優やキャラクターといった「向こう側」にいる/にしか存在しえない人物を通さず、そして「向こう側(にいる/にしか存在しえない人物)」というフィクション=ファンタジー世界を観ていることしかできない、サニーデイ・サービス(の、おそらく『東京』)を聴くぼくらの事もきちんと含めて歌ってくれているということだ。もちろんフィクション=ファンタジー世界にしか描きえないものだって星の数ほどあるが、それを描いている人だって作業の最中に流すことで寄り添ってくれるポップミュージックを必要としているとぼくは信じている。

それをシャムキャッツは、青春パンクでも病んでる歌詞のエモいギターロックでもなく、ゆるふわ女の子ちゃんみたいな音楽でもなく、その辺のスタジオで一発録りしたようなガレージポップに乗せて歌ってくれるのだ。もう誰だって聴くしかないじゃないか。

最後に上で引用したフライヤ−におけるコメントが、こんなに長々と書かなくたって問題ないぐらい素晴らしいので載せておきたい。改めていうが、シャムキャッツは、本当にいま・ここにおいて聴かれるべきバンドなのだ。

ゆとり世代以前、最後のリアリティー」(ゆーきゃん)

「夜の東京は、ギラギラした人たちによるギラギラした音楽ばかりが目立った。遅くに地方から上京した僕は、それに媚びることのできる年齢でもなかった。でも、そういう人たちも、春先のド平日、人もまばらな午後の中央線から見る風景とかは、きっと好きなはずだと思っていたりしている。東京の風景を歌ってくれる東京のバンドにやっと会えました。ありがとう」(劔樹人/あらかじめ決められた恋人たちへ

「なんだこの気分。もうずいぶん成長していい年齢になったのに、未だに、毎日、こんなにも生死をかけて必死で生きている僕(だけじゃないと思うが)を『大丈夫だ』と、この若者たちに言われている気がして、恥ずかしい気分になった。そして、さらには、僕の実際に恥ずかしい10年ぐらい前の(そんなに華やかでない)記憶まで思い出させてくれるからすごいもんだ。だから、純粋に泣ける。やっぱりすごいもんだ」(亀山直幸/ディスクユニオン

チャットモンチー『告白』

告白

告白

チャットモンチーを初めて聴いたのはシングル「シャングリラ」からで、「aikoトライセラトップスを足して2で割ったようなバンドだな」と思った。キャッチーでダンサブルなパワーポップ風のギター、レビューでは決まって「等身大の(普通の)女の子を描いた」なんて書かれる甘い恋愛の歌詞。

チャットモンチーについてだけではないが、そもそも「等身大=普通の」とはなんじゃらほい、ということが気にかかる。
「普通」なんてのは特定個人、あるいは集団内における特定の価値観イメージの集合であり、人々が無意識下で連想する「普通じゃないもの=異常なもの」を除いたすべてが「普通」になる。ってのはテツガクだのヒヒョーだのをちょっとかじっていればいくらでも見つかる議論だ。

それでは「普通の女の子の恋愛」を歌い、そうした「普通の人」にちゃんと売れている(ぼくに言わせればロキノンを愛読する女子高生に人気があればもう「普通に売れているバンド」だ)チャットモンチーの人気の秘訣とはなんだろうか。

希望の未来なんて/無くったって/いいじゃないか(シャングリラ)

しまった/もう世界は/終わっていた(世界が終わる夜に)

歌詞カードをじっくり読んでみると、彼女たちの歌詞(三人がそれぞれ作詞を担当している)にはネガティブな感情表現が結構目につく。「女子たちに明日はない」なんてシングルもあるぐらいだ。今回のアルバム『告白』においても

あなたの好きな煙草/私より好きな煙草/いつだってそばにいたかった/わかりたかった/満たしたかった(染まるよ)

明日ダメでも/明後日ダメダメでも/私を許して/それがやさしさでしょう?(やさしさ)

といった感じで、相変わらずのネガティブぶりを発揮している。ぼくは若干病んでいる女の子が好きなので、こういう女の子が「普通」なのだとしたら大歓迎である。ついでにできれば眼鏡をかけていてくれていると嬉しい。しかし、いくら先行きが全く分からない不安な社会だからって、残念ながら今の日本に日本武道館を埋め尽くすほどのちょい病み女子が大量発生しているわけではないだろう(ほんとはしてるのかも)。

速水健朗ケータイ小説的。』に代表される昨今のケータイ小説論において、レイプや難病というセンセーショナルな事件の単調な羅列は物語を駆動させるための装置でしかなく、若者言葉をふんだんに使い、行間をたっぷり取り、相手に連絡を取る時に「電話をかけるかメールで済ますか」という行動選択から受ける心理的な影響の描き方に「共感」を呼び、それが「リアル」だと映るから人気を博しているのではないかという指摘がある。
つまり、内容やテーマはどうでも良くて、細部のリアリティをどれだけ確保できるかが課題だということだ。もちろん女子中高生の間でレイプや難病が大流行しているわけではない。

そういえば、ぼくが最初に聴いた「シャングリラ」も好きな人からの連絡が返ってこないストレスに耐えかね、携帯電話を川に放り投げてしまう歌だった。実際に携帯を川に投げる人を見たことはないが、放り投げたくなった経験のある人は30代以下であればあるほど多いだろう。そうした等身大=普通=同時代性を持つ表現すべてがセルアウトするわけではないが、時代に名を残すアーティストの作品はいつだって同時代性を兼ね備えている。チャットモンチーは、若者が抱える様々な不安を上手く捉え、結果的に「等身大の=普通」になることができたのだ。

音楽性については、初期によく見られた「ナンバーガール以降のタイトなギターサウンドを取り入れようとして失敗し、ペラペラな音像になってしまうゼロ年代ロキノン系」から脱出し、スタジアムロック的に大がかりになっていくのが嬉しかった。素敵なポップソングを量産し続け飽きられないことだって立派な職人芸である。