チャットモンチー『告白』

告白

告白

チャットモンチーを初めて聴いたのはシングル「シャングリラ」からで、「aikoトライセラトップスを足して2で割ったようなバンドだな」と思った。キャッチーでダンサブルなパワーポップ風のギター、レビューでは決まって「等身大の(普通の)女の子を描いた」なんて書かれる甘い恋愛の歌詞。

チャットモンチーについてだけではないが、そもそも「等身大=普通の」とはなんじゃらほい、ということが気にかかる。
「普通」なんてのは特定個人、あるいは集団内における特定の価値観イメージの集合であり、人々が無意識下で連想する「普通じゃないもの=異常なもの」を除いたすべてが「普通」になる。ってのはテツガクだのヒヒョーだのをちょっとかじっていればいくらでも見つかる議論だ。

それでは「普通の女の子の恋愛」を歌い、そうした「普通の人」にちゃんと売れている(ぼくに言わせればロキノンを愛読する女子高生に人気があればもう「普通に売れているバンド」だ)チャットモンチーの人気の秘訣とはなんだろうか。

希望の未来なんて/無くったって/いいじゃないか(シャングリラ)

しまった/もう世界は/終わっていた(世界が終わる夜に)

歌詞カードをじっくり読んでみると、彼女たちの歌詞(三人がそれぞれ作詞を担当している)にはネガティブな感情表現が結構目につく。「女子たちに明日はない」なんてシングルもあるぐらいだ。今回のアルバム『告白』においても

あなたの好きな煙草/私より好きな煙草/いつだってそばにいたかった/わかりたかった/満たしたかった(染まるよ)

明日ダメでも/明後日ダメダメでも/私を許して/それがやさしさでしょう?(やさしさ)

といった感じで、相変わらずのネガティブぶりを発揮している。ぼくは若干病んでいる女の子が好きなので、こういう女の子が「普通」なのだとしたら大歓迎である。ついでにできれば眼鏡をかけていてくれていると嬉しい。しかし、いくら先行きが全く分からない不安な社会だからって、残念ながら今の日本に日本武道館を埋め尽くすほどのちょい病み女子が大量発生しているわけではないだろう(ほんとはしてるのかも)。

速水健朗ケータイ小説的。』に代表される昨今のケータイ小説論において、レイプや難病というセンセーショナルな事件の単調な羅列は物語を駆動させるための装置でしかなく、若者言葉をふんだんに使い、行間をたっぷり取り、相手に連絡を取る時に「電話をかけるかメールで済ますか」という行動選択から受ける心理的な影響の描き方に「共感」を呼び、それが「リアル」だと映るから人気を博しているのではないかという指摘がある。
つまり、内容やテーマはどうでも良くて、細部のリアリティをどれだけ確保できるかが課題だということだ。もちろん女子中高生の間でレイプや難病が大流行しているわけではない。

そういえば、ぼくが最初に聴いた「シャングリラ」も好きな人からの連絡が返ってこないストレスに耐えかね、携帯電話を川に放り投げてしまう歌だった。実際に携帯を川に投げる人を見たことはないが、放り投げたくなった経験のある人は30代以下であればあるほど多いだろう。そうした等身大=普通=同時代性を持つ表現すべてがセルアウトするわけではないが、時代に名を残すアーティストの作品はいつだって同時代性を兼ね備えている。チャットモンチーは、若者が抱える様々な不安を上手く捉え、結果的に「等身大の=普通」になることができたのだ。

音楽性については、初期によく見られた「ナンバーガール以降のタイトなギターサウンドを取り入れようとして失敗し、ペラペラな音像になってしまうゼロ年代ロキノン系」から脱出し、スタジアムロック的に大がかりになっていくのが嬉しかった。素敵なポップソングを量産し続け飽きられないことだって立派な職人芸である。