シャムキャッツ『はしけ』

はしけ

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シャムキャッツ 1st album 「はしけ」

本当に素晴らしいバンドに出会ってしまった時、「このバンドはあのバンドの影響があって、ここの要素がいいんだよね」なんてことをしたり顔で言えなくなってしまう。
とりあえずぼくにできるのは、このバンドがいかに好きかということをこれでもかと書いて、あとはより多くの人に聴いてもらえることを祈るばかりである。ここ数年、そんなバンドに出会う機会がどんどん増えてしまっているので、迎え撃つ側としてそのスピードに追いつけるよう書き続けるしかない。

ぼくらはもうライヴハウスなんて狭い空間に閉じこもって、内輪ノリに満足し続けてる場合じゃない。侵攻は既に始まっている。あいつらがぼくの好きな音楽をオモチャにして消費し尽くす前に、その音をきちんと言葉にして存在を明らかにしておかなければならない。

そんなわけで、これからシャムキャッツというバンドを絶賛する。
昨日も会社の昼休みに都内某所のベローチェに入って、『橋本治内田樹』を読みながら聴いてたよ。すんばらしいね。シャムキャッツ。みんなも聴くといいと思う。
惜しくも休刊となってしまった『cinra magazine』の最終号に収録されていた「忘れていたのさ」を聴いて、「ああっ、やられた!」と思わずにはいられなかった。アコースティックギターと木琴、ドラムに鈴、そして良い意味で噛み合っているのかいないのかわからないコーラスが織りなす、NHKの「みんなのうた」で小学生が演奏して歌っていてもおかしくなさそうな優しい音色のポップス。そこで歌われるのは、吉祥寺や高円寺、両国にお茶の水といった、どちらかと言えば中央線寄りな東京のなんでもない風景たち。

彼らは、Clap Your Hands Say Yeah以降のローファイであることに思想性という名の押しつけがましさがないゼロ年代型USインディポップサウンドに、はっぴいえんどサニーデイ・サービスの歌う「古くて新しい東京の風景」観を見事に更新させた歌詞が乗るバンドなのである。

1、飽きるまでじゃれあって
2、しばらくダニー・ハサウェイを聴いて
3、思い出してまたやって、を
4ヶ月以上繰り返した

これは彼らの代表曲の一つ「アメリカ」の歌詞だが、これだけ見るとさっきの「東京」の話はどこへやら。日本をすっ飛ばしてアメリカに行きたいという歌なのだが、行きたい行きたいと言うだけで「まだやりたい/君とまたやりたい」「でもまたきっとを繰り返すのさをまたずっと繰り返すのさ/おえ〜(嘔吐)」と続いていく。結局「やること」を巡る話にすり変わっていく。
ヤりたいんだかヤりたくないんだがはっきりしろ、という話ではあるが、ぼくもほとんど同じような経験をしたことがあった。直後に聴いていた音楽がダニー・ハサウェイではなくレディオヘッドだったぐらいで。これが「文化系草食の皮をかぶった肉食男子(笑)」のリアルなのだと勝手に定義したい。

そんなぐだぐだな恋愛ごっこが行われている場所が、彼らにとって東京だったのだ。作詞作曲を担当する夏目智幸(水分くんに先日紹介してもらったけど、可愛い彼女を連れた素敵なおにーさんでした。ぜひまたお話したい)はアルバムについて、フライヤーにこう記している。

ないものねだりの青年四人でバンドを組みました。
東京にはなんでもあるのにたまにすごく退屈します。
退屈に耐えられずなんでももとめると結局は退屈がほしくなったりします。
そういう日々の中でどうでもないことが沢山おこります。
そのどうでもない出来事が急に踊り出すときに出来た曲が10曲、はしけに入っています。
今日からは曲が流れたときに退屈が踊り出したらいいなと思っています。


デベロッパーによる地方開発が進み、郊外にもそれなりにショッピングセンターやシネコンが出来た現在、もはや東京という街が誰にとっても「なんでもある」場所とは言えないかもしれない。けれど、確実に言えるのは、誰もが「なんでもあるという幻想を持っている」場所だということだ。
スーパーカーが「PLANET」で自らの故郷を淡い思い出=名前のある場所として「青い森」と歌ったのはもう10年前だが、デベロッパーの開発は結果として地方の東京化=均質化=匿名化を生み出し、消去法的に地名から連想される具体的イメージを、現在進行形で持ち続ける街が「人の個性を消す」はずの東京のみになってしまったのだ。

けれど、ぼくも話をひっくり返してしまえば、やっぱりそれは「東京」でなくてもいいと思う。

実際に東京を、日本を飛び出して北京に行ったとしても、思うことはやっぱり「チャイナは桃色/君が着るなら/どこへでも/君と行くなら」(チャイナは桃色)ということなのだ。
その「日常のディティールをこそ愛する」というテーゼは2000年代に入ってから、映画なら『リンダリンダリンダ』や『天然コケッコー』で、アニメなら『涼宮ハルヒの憂鬱』〜『らき☆すた』〜『けいおん』という一連の京都アニメーションのそれの中で何度も何度も言われてきたことではある。

しかし、ぼくがシャムキャッツをそれらよりすごいと思うのは、「今日子ちゃんの浮気相手のあいつの彼女のゆみちゃんは/最高だねって言ってサニーデイ・サービスのCD聞いてる」(今日子ちゃんのうた)だなんて切なくも情けない風景を、俳優やキャラクターといった「向こう側」にいる/にしか存在しえない人物を通さず、そして「向こう側(にいる/にしか存在しえない人物)」というフィクション=ファンタジー世界を観ていることしかできない、サニーデイ・サービス(の、おそらく『東京』)を聴くぼくらの事もきちんと含めて歌ってくれているということだ。もちろんフィクション=ファンタジー世界にしか描きえないものだって星の数ほどあるが、それを描いている人だって作業の最中に流すことで寄り添ってくれるポップミュージックを必要としているとぼくは信じている。

それをシャムキャッツは、青春パンクでも病んでる歌詞のエモいギターロックでもなく、ゆるふわ女の子ちゃんみたいな音楽でもなく、その辺のスタジオで一発録りしたようなガレージポップに乗せて歌ってくれるのだ。もう誰だって聴くしかないじゃないか。

最後に上で引用したフライヤ−におけるコメントが、こんなに長々と書かなくたって問題ないぐらい素晴らしいので載せておきたい。改めていうが、シャムキャッツは、本当にいま・ここにおいて聴かれるべきバンドなのだ。

ゆとり世代以前、最後のリアリティー」(ゆーきゃん)

「夜の東京は、ギラギラした人たちによるギラギラした音楽ばかりが目立った。遅くに地方から上京した僕は、それに媚びることのできる年齢でもなかった。でも、そういう人たちも、春先のド平日、人もまばらな午後の中央線から見る風景とかは、きっと好きなはずだと思っていたりしている。東京の風景を歌ってくれる東京のバンドにやっと会えました。ありがとう」(劔樹人/あらかじめ決められた恋人たちへ

「なんだこの気分。もうずいぶん成長していい年齢になったのに、未だに、毎日、こんなにも生死をかけて必死で生きている僕(だけじゃないと思うが)を『大丈夫だ』と、この若者たちに言われている気がして、恥ずかしい気分になった。そして、さらには、僕の実際に恥ずかしい10年ぐらい前の(そんなに華やかでない)記憶まで思い出させてくれるからすごいもんだ。だから、純粋に泣ける。やっぱりすごいもんだ」(亀山直幸/ディスクユニオン