THE NOVEMBERS『Misstopia』

■やっぱり「音楽について書くこと」について考えている
「音楽について書くこと」をひどく雑に二分するとすれば、一つは音楽そのもの、メロディやコードや制作方法やエフェクターや歌詞などについて書くもの、もう一つは音楽の外側に立脚し、ジャンルが属するシーンや一種の社会文化論、リスニング体験を通した自分語りなどについて書くもの、に分かれるのではないだろうか。

 どういった音楽がどちらのスタイルで書かれがちなのかはわからないし、わかったからなんだという話ではある。そもそも、もうあなたが「音楽について書かれたもの」を好んで読んでいるかどうなのかさえ不明だ。ぼくの周りの“音楽好き”のだいたい90%ぐらいはもう音楽雑誌なんて全く読んでいない。クチコミと(マス)メディアのどちらを信じるとかいうアレだ。
 テクノばっかり聴くやつ、ロキノン系ばっかり聴くやつ、メタルばっかり聴くやつといったジャンルスキーとまったく並列な位置に“音楽雑誌ばっかり読むやつ”は位置付けられてしまっている気がしてならない。それは今に始まった話かどうかは、知らない。知らないし、このブログがそうであるように音楽雑誌だけに「音楽について書かれたもの」が載っているわけではない。

 けれど、あなたが、今までに読んで気に入った「音楽について書かれたもの」を集計してみた場合、どちらの数が多くなるのだろうか。ぼくはあなたに好まれるものを書きたい。できれば否定して欲しくない。もし否定する時は、できればぼくを納得させて欲しい。ぼくはあなたと話がしたい。“わかりあった”つもりになりたい。むろん、「“わかりあった”つもり」になって満足するのはぼく自身であって、あなたが満足しているかどうかは最終的に知り得ることはできない。仮にあなたが「君とわかりあうことはできそうにない」と言い放ったとする。この発言があなたの本心からの言葉かどうかは、ぼくのちっぽけな知識・経験から判断する他なく、人づてに聞いてみたところで「その人」の発言が完全にあなたの本心を反映しているかどうかはわからない。

THE NOVEMBERSと「狭義のオルタナティブ・ロック」について

 今回はそんなことを考えながら、THE NOVEMBERSについての話をする。彼らは2005年に結成された4人組のオルタナティブ・ロックバンドである。ぼくは彼らの自主製作盤*1以来のファンであり、最新作の『Misstopia』も素晴らしいアルバムだと思ったからだ。
好きだから紹介したい。だから書く。最初の動機付けはそれだけである。論として破綻している箇所が多々あるかもしれないが、あなたが彼らを気に入ってくれさえすれば、ぼくの勝ちである。

 彼らはデビューアルバム『THE NOVEMBERS』から『Misstopia』まで一貫してThe CureSonic YouthMy Bloody Valentineといった80〜90年代に最も活躍したギターバンド、あるいはそれに影響を受けた狭義の「オルタナティブ・ロック*2」を追求するバンドである。

 この反対に位置する広義のオルタナティブ・ロックとは、声を含むあらゆる“音の出るもの”を駆使し、ジャンルをごちゃまぜにして「音楽による聴覚体験の更新」を図ろうとするスタンスのバンドを指す。それはRadioheadPrimal Screamのようにアルバム毎にサウンドを全く違ったかたちに変化させることであったり、最近ではAnimal CollectiveやVampire Weekendのような、ジャンル間の組み合わせの妙を楽しみながら“聴いたことのない音”を生み出すバンドであったりする。当たり前の話だが、「音楽による聴覚体験の更新」においてギターを使っていようがいまいが関係ない。

 話がややこしくなったので整理してみる。
 現在ぼくらが「オルタナ」という言葉を使って音楽を説明する際、ロックンロールやメタルなどと同様に、ある程度完成されてしまった音楽スタイルをあえて追求する「狭義のオルタナ」と、最新のサウンドを貪欲に取り入れ、特定のスタイルを保持することに重きを置かない「広義のオルタナ」の片方かあるいは両方を意味しているということだ。

 どちらの定義が使われているかは書き手の文脈によって判断するしかない。たとえば今年、「狭義のオルタナ」のサブジャンルであるシューゲイザーについて書かれた本として黒田隆憲+佐藤一道監修「シューゲイザー・ディスク・ガイド」が出版された。本書では各章の冒頭にはそのジャンルやサウンドについての定義が何度も何度も語られているように、抽象的な“音”に関して言葉を連ねる場合、その手数は必然的に多くなってしまう。らせん階段のようにさまざまな話題をぐるぐる回りながら、ゆっくりとその本質に近づいていくこと。それは遠まわりのようでいて、最も有効な手立てなのかもしれない。

■日本の「狭義のオルタナティブ・ロック」と「鬱ロック」について

 THE NOVEMBERSは「狭義のオルタナティブ・ロック」だと書いた。
 彼らの音楽でまず目を引くのは、何人ものインタビュアーが指摘している通り、アメリカとイギリスの「狭義のオルタナ」が並列に左右のチャンネルで鳴っている点だ。1stミニアルバム『THE NOVEMBERS』の1曲目「Exit」から既に、左ではThe Smith、右ではAt The Drive Inを同時に聴いているような気分になってくる。かと思えば幻想的なシューゲイザーをハードコアのような暴力性でもってカヴァーしたような楽曲(白痴)があり、Sonic Youth的なギターアンサンブルの絡み合いがあり(dnim)、Modest Mouseっぽいミニマルな単音ギターリフを採用しながらUKスタジアムロックばりの解放感がある楽曲(パラダイス)など、ついニヤリとしてしまうような組み合わせが実に多い。さまざまな音楽要素を上手くまたは失敗して咀嚼するのではなく、ほんとうにそのまま混ぜてしまっているのだ。一枚のアルバムの中でUK寄り、US寄りの楽曲を散りばめるバンドはいても、曲中で同時に鳴らすバンドをぼくはまだ知らない。
歌のメロディは、ソングライティングを手掛ける小林がイギリスの「狭義のオルタナ」に深い影響を受けていることもあり*3、ほぼ全曲に渡ってキャッチー「美メロ」で統一されており、散漫な印象を受けることはない。

しかし、小林が影響を公言するバンドの一つであるL'Arc〜en〜CielがUKオルタナ的な文脈で語られることがほとんどないように、どうも音楽雑誌やブログなどの反応を見ていると、「狭義のオルタナ」チルドレンとして評価されていることはあまりないように思える。
ロック音楽の評価軸においては、「どんな楽曲が作られているか」と同程度に「何が歌われているか」も重要な項目となっている。次は彼らの歌詞について考えてみよう。

 歌詞に関しては初期は特に「もう今年も夏が過ぎていく/あなたを汚した夏と罪」(最近あなたの暮らしはどう)、「きっと僕たちは/腐っていた/偽っていた/笑っていた/意味がないな」(ア_-オ)といった、“きみとぼくと自意識”にまつわる抽象的なエピソードを露悪的に描き出す表現が多い。大好きなあなたの隣に座る「僕」は「世界中のレイプ犯と同じ体の仕組み」(picnic)で構成されていることを気にせずにはいられないといったように。
歌詞だけでバンドのすべてを捉えようとする試みは避けるべきだが、一部のリスナーからは「それこそがリアリティのある表現であり、かつその内容を理解できることがステータスである」といった「鬱ロック」的だと看做され、評価/揶揄されている傾向が強い。
「鬱ロック」の代表格とされているsyrup16gART-SCHOOLと音楽性が近く(syrup16gはUKオルタナART-SCHOOLグランジに強い影響を受けている)、それらとの対バン経験を持つTHE NOVEMBERSもここにカテゴライズされることは多い。「狭義のオルタナサウンドと“きみとぼくと自意識”にまつわる歌詞。これがどうも「鬱ロック」の条件となっているようだ。

 また新しい定義を出してしまったのですこし話を脱線させると、この「鬱ロック」という用語はなかなか興味深い。この用語はぼくの知る限り特定のミュージシャンや音楽ライターによって定義されたものではなく*4、カテゴライズされているジャンルも多岐に渡っている。恐らくは2ちゃんねるmixi、ブログなどリスナー間で草の根的に根づいたバズワードだろう。現在mixiの同名コミュニティ*5(2007年に作成されている)には1万人以上が参加しており、一定の支持者が存在することがうかがえる。
 同コミュニティには「鬱ロックを聴く意味・意義」というトピックがある。同トピックの「何故私たちは鬱ロックを好んで聴いてしまうのか」という問いに対して、「ありきたりな応援歌や恋愛ソングには共感できない。負の感情も含めたありのままの姿を歌った歌詞を聴きたいからだ」と歌詞を重視する回答が多く、音楽性に関してはほとんど議論されていない。

それらが受け入れられてきた背景は、「音楽について書かれたもの」よりも、宮台真司『終わりなき日常を生きろ』『制服少女たちの選択 After Ten Years』といった社会評論や斎藤環によるひきこもり関連の著作、前島賢セカイ系とは何か』といったオタクカルチャー分析といった分野で90年代後半〜ゼロ年代にかけて多くの論者が興味深い論考を寄せているので、興味のある方は読んでみて欲しい。音楽ライターでいえば銀杏BOYZ神聖かまってちゃんといった最新型の自意識系バンドについても多くの論考を寄せている磯部涼は確実にこの辺りの文脈を踏まえている。

 それらをしっかりと説明するとただでさえ脱線の多いこの原稿で更に脱線を重ねてしまうため省略するが、「鬱ロック」が受け入れられてきた前提として

  1. 冷戦体制の崩壊や2001年の9.11テロ、長期化する不況や凶悪化した(と感じてしまう)犯罪など、“右肩上がりの経済”“一億総中流”といった日本社会を構成してきた前提=「大きな物語」がここ10年ほどで完全に崩壊してしまったこと
  2. 膨大な音楽的教養が聴き手にも求められた渋谷系レアグルーヴが下地となり電気グルーヴ石野卓球)やコーネリアスといった「世界と対等に戦える日本のミュージシャン」が生まれ、ロックにおいてもくるりナンバーガールスーパーカーなどの“98年組”が海外のオルタナサウンドと日本人でも歌えるメロディを完全にミックス・血肉化して受け入れられた。この結果若いリスナーの間で「洋楽もちゃんと押さえておかなければならない」といったコンプレックスがかなり薄まり、“98年組”のフォロワーが多数を占めるようになる中で、音楽における評価軸の中で「海外の音楽と照らし合わせても耐えうるような強度を持っているか」が絶対視されなくなってきたこと

という二つの条件(同時期に起こったとはいえ、これらは別々のレイヤーから発生している事象ではあるが)が複雑に絡み合った結果のように思う。1.では「不安」が生まれ、2.では「肯定」が生まれた。小泉改革に対する当時の熱狂がそうであったように、「不安」に包まれた社会ではストレートな「肯定」の言葉を人々は求めがちだ。サウンド面の是非についてあれこれ考えるような「余裕」はそこにはなかったのである。

よって当然、こうした向きに「どうせ大して音楽なんて聴いてないんだろ」「一生そのまま自分に酔ってれば?」と反発するリスナーも多い。ゼロ年代の「狭義のオルタナ」バンドの多くがそう分類されており、かつ音楽=サウンドとして面白いと感じられないバンドもぼくの実感ベースでは多かったように思う。

THE NOVEMBERSは「鬱ロック」なのか

 さて、THE NOVEMBERSの話に戻る。
 オールドスクールな「狭義のオルタナ」的ギターバンドスタイルと、「鬱ロック」的な歌詞、これだけ聴くと同時に両足で地雷を踏んでしまったような危うさしか感じられないが、むしろここに踏み込んでいることがTHE NOVEMBERSの魅力だとさえ思う。
ぼくがそうしたギターバンドを好んで聴いていることを抜きにしても、地雷原を突っ走りながら音楽を鳴らす彼らは、相対的でうつろいがちな“いま・ここ”だけを見つめるだけではわからない何かを見せてくれるのではないかと信じている。

 上でTHE NOVEMBERSの歌詞を「“きみとぼくと自意識”にまつわる抽象的なエピソードを露悪的に描き出す、鬱ロック的なもの」にカテゴライズされていると書いたが、ぼくは少し違うと思う。
 ソングライティングを手掛けるボーカルの小林は、インタビューやバンドのブログでこんな話をしている。

なんのためにうまれて
なにをして生きるのか
こたえられないなんて
そんなのはいやだ!
今を生きることで
熱いこころ燃える
だから君はいくんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも

なにが君のしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないままおわる
そんなのはいやだ!
忘れないで夢を
こぼさないで涙
だから君はとぶんだどこまでも
そうだ おそれないで みんなのために
愛と勇気だけが ともだちさ

時ははやくすぎる
光る星は消える
だから君はいくんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ どんな敵が あいてでも

アンパンマンのマーチ/ドリーミング より抜粋
_______________________________

なんだ、僕達はうんと小さい頃からこの言葉を知っていたんじゃないか。知っていただけ。
子供の僕には何の意味もなかったのだ。信じることを知るまえの疑うことを知るまえの出来事。

「一周回って、有りだな、って思った。」

??
なめんな、アンパンマン観て勉強なさい。
1068 « THE NOVEMBERS

THE NOVEMBERSとして、バンド自体の共通した価値観や、心掛けている事はあるんですか?

K:やっぱり、自分自身にマンネリしないこと、自分が表現していることが自分以外に依存しないようにしたいと思っています。バンドに対しても思っていて、お客さんが待っているから音楽をやっているというのではなく、自分自信に理由も目的も結果もすべて返ってくると思っています。あと、美意識を持っていたいなと思っています。飾らずに、ありのままのステージを観てもらいたいというのはそこに彼ら自身の信念や美意識があった上で初めて成立すると思うんです。何も持たずに漫然と普段着のまま、人に見られるということを全く意識せずにステージに立つようなことは、僕は嫌です。お客さんにお金や時間を割かせるのなら、なおさらそう思います。音楽だけでなく、ルックスや発言を通して、信念や美意識があるアーティストや音楽が好きでしたし、自分もそうありたいと思っています。
http://blog.diskunion.net/user/kame/kame/12564.html

 こうした一連の発言から推測するに、彼は陰の部分よりも光の部分、何らかの「純粋さ」に強い拘りがあるのではないだろうか。露悪的な表現が頻出するのは、そうした「光=純粋さ」の強度を問い続けているようにも見える。今作『Misstopia』では人間にとって最も重要な器官である心臓をモチーフとしたジャケットが描かれ、

「どこへ行こう/どこへでも行ける/そこに心があるかぎり」(Misstopia)
「次から次に/心を吊るし/胸がこわれそう」(dysphoria)
「今日も僕らの街で/たくさんの心が犯されているのを/楽しんだ大人達を/永遠に外で逆さに吊るす」(パラダイス)
「ねぇ/それは心じゃないんだよ/ただの役割なんだよ」(ウユニの恋人)
「言葉は置いていこうかな/心を見せ合うために」(tu m’)

と歌詞中に「心」というワードが何度も連ねられている。むしろこれらは、「鬱ロック」リスナーの嫌う“きれいごと”ではないだろうか。
 人に嘘をつくな、強きをくじき弱きを助けろ、何事にも誠実であれ……といった、古典的すぎるあまりに思い出すことすら困難な人間のあるべき姿=純粋さ。それらを見せられた後に残る感情は、良質の童話を読み返した際に感じるそれに近い。

 しかし、彼らの楽曲において何が純粋=「心がある」状態であり、何がそうでないかという具体的な例は挙げられていない。ぼくとあなたが完全に、絶対的にわかりあうことができないように、自然科学や数学といった物理法則を除くあらゆる出来事は「完全=絶対」であることは不可能だ……という意地の悪い指摘をしてしまう程度には、ぼくも心が犯され、逆さに吊るされるべき程度の低い人間なのだろう。
 だからこそ、ぼくは彼らのギターノイズや露悪的な言葉の先に見える理想郷としての光=純粋さに強く惹かれるのかもしれない、と思う。

■二つのノイズ

 また、THE NOVEMBERSの楽曲が大音量で“ウォール・オブ・サウンド”を生み出し、音楽への没入を促すノイジーシューゲイザーサウンドが多用されているのも、そうした「純粋さの追求」と無関係ではないだろう。
 ノイズと一言でいってもその定義や意味合いは個々人の主観やテキストの文脈、そして当然音そのものによってかなり意味合いが違ってくるが、ギターノイズには二つの効用がある。全身を包み込み、バリアを張るようなノイズと、鳴った瞬間に違和感を覚える、雑音=外部としてのノイズ*6だ。

 仮に彼らのノイズが前者だとすれば、また一つ彼らの前に作品としての強度を問うような「危うさ」が登場してしまう。
 爆音でノイズを生み出し、強固な理想郷=純粋さを求めれば求めるほど、その過程において多くのものが失われてしまうからだ。

 まず、世界で起こっている戦争の大半は、互いの理想郷=純粋さを追求した結果起こる衝突の産物だ。なぜあなたとはわかりあえないのか、わかりあう方法はないのか、ならば排除してしまうしかない、というのが基本的なロジックだ。
 60年間戦争を体験していない日本においても、同様の光景は散見される。街に出れば至るところに監視カメラが設置されているし、公園では野宿者が締め出され、若者にしか聞こえないという高周波音が鳴り響く。技術の進歩はより人間を「完全」で「純粋」にあるべき社会を目指し、工学的管理下に置くことを可能にしつつある。どうもぼくらの社会では、雑音=外部としての、後者の「ノイズ」は排除される傾向にあるらしい。ぼくらがバリアで身を守っている間、そのバリアに弾かれてしまう人のことをしばしば考えられなくなってしまう。

 爆音ノイズがどうしても耐えられないという人を前にして、ぼくがこんなにも多くの言葉を連ねたところで何の意味もない。音楽を前にして耳を塞いでしまう人を前にすれば、彼らの存在も無意味になってしまう。

THE NOVEMBERSは「危うさ」を乗り越えられるか

 とはいえ、前作『paraphilia』以降、確実に彼らの音楽性は“解放”“光”という言葉を当ててみたくなるような、サウンド・歌詞ともに多様性のあるものに変化していっているのは事実だ。アルバムのラストを飾る「tu m’」がローファイな宅録風の音像なのも「ギターバンドという形態に拘る必要はない」という自信の表れだとぼくは解釈する。
極めて危うい立ち位置を維持し続ける彼らが目指す先は「あらかじめ失われた理想郷=Misstopia」なのかもしれない。けれど、だからこそぼくはそれを追い求める彼らを支持したいと思う。

“敵”の存在を暴露し、絶対安全な“正義”の側から攻撃を加えるのではなく、いつもどこかで「自分自身がそうした“敵”になり得るかもしれない」という懸念を念頭に置いておくこと。あらゆる価値観がフラットになったこの世の中において、そうした問いを残している小林の倫理性にぼくは強い共感を覚える。たとえば、『paraphilia』の最後に収録されている「mer」の最後のフレーズで「これからどこへ行こうか」と彼は歌っている。そこで志向しているのは、決して停滞ではないはずだ。

 彼らは今後、ぼくらをどんな場所に連れて行ってくれるのだろう。こんなに毎回新譜が楽しみなギターバンドはそうそういない。



Misstopia

Misstopia

シューゲイザー・ディスク・ガイド (P-Vine Books)

シューゲイザー・ディスク・ガイド (P-Vine Books)

東京大学「ノイズ文化論」講義

東京大学「ノイズ文化論」講義

*1:現在フリーダウンロードできる1stデモがぎりぎりライヴ会場で買えた頃、自主企画『首』の2回目か3回目ぐらいからだったと思う

*2:他にもギターポップ、ギターロック、シューゲイザーなど様々な呼称やサブジャンルが存在する。しかしここでは「ギターをサウンドの中心に置いたバンド」程度に留めておき、それぞれの定義について厳密には追及しない

*3:いまは、Echo & The Bunnymenの「Crocodiles」というアルバムを聴いている。このアルバムとは僕が19歳くらいのころに出会い、いまだに聴く一枚である。そのころの僕は洋楽ではThe SmithsThe CureJoy Division、Bauhaus、The PoliceXTC、、、、などの世に言うポストパンクやニューウェイブ(あまりカテゴライズの話をするのも野暮だけれど参考までに)を気に入って聴いていたので、初期の我々のデモ音源にはその影響が色濃く出ていると思います。スミスやキュアーに関してはあまりに思い入れが強いので、そのうち好きなアルバムのことなども書くかもしれません。http://the-novembers.com/weblog/763/

*4:語源を知っている人がいたらぜひ教えてほしい

*5:http://mixi.jp/view_community.pl?id=2156944

*6:これらに関する一連の議論は、たとえば宮沢章夫東京大学「ノイズ文化論」講義』がとてもおもしろい