BUMP OF CHIKEN『jupiter』

jupiter

jupiter

高校時代、童貞で、今よりも更に情けなかったぼくは、BUMP OF CHIKENがキライだった。あんなのロックじゃねーよ。ぷんぷん。

大体なんなんだあれは。サッカー部のイケダくんもバレー部のアリマくんも、演劇部で一緒だったカナモリさんもトミタさんもバンプパンプ。猫も杓子も運動部もオタクもみんなお気に入りに挙げていたバンド。
もし彼らがキライだなんて言おうものなら、「バンプをバカにするなんてサイテー」なんて具合に非国民のレッテルを貼られる。教室の隅にうつぶせになって最大音量でナンバーガールのMDを聴くハメになる(最大限の「オレのセンスイケてるでしょ?」アピール)。そんな「伝統的な、そして何かを大きく間違った学園生活」をぼくはエンジョイしていたのだ。

その頃ぼくが読んでいた『ロッキン・オン・ジャパン』は毎月彼らを取り上げた記事を載せていて、さながら「月刊パンプオブチキン」といった状態になっていたことがイライラを余計に募らせた。今はどうだか知らない。もう読んでないからね。やっぱり『ミュージック・マガジン』これだよ。J-POPもアングラも、国内も海外もほどよいバランスで掲載するのがいいよね。元文化系みたいなおっさんにも意外に話が通じるし、ビジネスパーソンにもオススメ。右手に日経新聞、左手にミューマガ。あんまり近寄りたくないサブカル社会人一丁おまたせしました!!

振り返ってみると、中高生だろうが大学生だろうが社会人だろうが、その時々の「音楽を深く掘り下げて聴かない人」たちにウケるアーティストとのはなんとなく決まっている。そして同時に「あんなのロックじゃねーよ」というヒネクレ者たちも一定数存在しており、彼らが聴いている、音楽好きにはメジャーだけど一般的にはマイナーなアーティスト――その多くは前述の『ロッキン・オン・ジャパン』によく取り上げられることから「ロキノン系」と呼ばれる――もなんだかなぁなんて思ってしまう音楽オタクどもは、バンドを始めるか2ちゃんねるでの終わりなきセンス闘争に身を置くか、ブログにうだうだオナニー文章を綴ることしかできない。

ぼくがどの選択肢を選んだかというと、つまりこういうことである。はははっ。「これで満足かい?」と「ぼく」は当時のぼくに問いかける。肯定でも否定でもない、苦笑いするしかない表情。サークルの新歓コンパで、髪がもっさりした先輩から酒を勧められて「飲めないんですぅ」だなんて言う時の女の子みたいな感じで。あいつまじうぜーよ。アルタ前で彼女はやたら細い煙草をぷかぷかさせる。ケータイには彼氏からのメール。「今何してんの?」いつもこの一文だけ。お前それしか言えないのかよ。「今日はもう眠いな。おやすみっ」と絵文字だらけのメールを返信して、深いため息をひとつ。
「オトコノコなんてバカばっか」

そんなどこにでもあるテニスサークル話よりも、バンプの話である。
高校で同級生だった彼らは、口を揃えて「バンプは歌詞が物語っぽくていいんだよねー」と言っていた。

失ってしまった「あのころ」をもう一度観ようと望遠鏡を覗きこむ二人(天体観測)、命を賭けて友達を守るライオン(ダンデライオン)、立ち止まって初めて見える「日常」の愛おしさ(ベンチとコーヒー)。「絵本のような世界観を作りたかった」というギターボーカルの藤原はその後自作の本を出版することになるし、ファンタジー系のゲームやマンガの主題歌を手掛けていく。彼(ら)にとって、「ロック」というフォーマットはあくまでも手段でしかないということか。

彼らの魅力は、3rdアルバム『orbital period』に収録されている「カルマ」という曲に凝縮されてしまうと思う。

この曲は「テイルズオブジアビス」という、剣と魔法のファンタジーRPGの主題歌で、スタート画面のまましばらく待っていると、アニメのオープニング風の映像に合わせて流れる。
前半で味方が一通り出てきて、中盤で敵キャラが登場、サビ部分では敵との大立ち回り。これはポップスにおけるAメロ→Bメロ→サビという展開と同様であり、ありがちだからこそ快楽性は確かなものがある。展開が全てわかっていても、思わず手に汗握ってしまうハリウッド映画のように。インディー時代の人気曲「K」は、黒猫が死んだ主人の恋人宛ての手紙を様々な苦難を乗り越えて届けるという歌詞だったが、ネット有志の手でFLASHアニメ化され、オタク層にも「逆輸入」されていった。

そういった音楽はそれこそアニメソングのフィールドではいくらでも確認することができるが、それを「ロックバンド」という、オタクっぽくない=クラスでも堂々と好きと言える体裁でやったのがヒットの要因だろう。そんな小さなことで、と思うかもしれないが、良い音楽をやっていれば売れるわけではないJ-POPだからこそ重要なポイントである。
萌えオタクの人たちは、自分が恋い焦がれる女性キャラクターへの思いを散々ぶちまけた後に「これは、ただの絵だ」と気づいて絶望するらしいけど、ロック音楽だって「ロックじゃない」ロック音楽だって同じなんだ。

これは、ただの音だ。
何をもってしてロックだのロックじゃないだのとするかなんて、「ただの音」にとっては何の関係もない。

この文章のタイトル「J-POPについて考える」というのはつまりそういうことで、「音楽」そのものよりも、音楽にまつわるあれこれに関してできる限り綴ってみる試みである。歌が入っていようがいまいが、「純粋に音そのものだけを楽しむ」という行為でさえ、「ただの音」を聴いたぼくらの事後的な感想であり、その愉しみを綴るためには音楽以外のあらゆることについて触れなければならない。そして、その行為は「ただの音」から遠く離れたイメージを植え付けてしまう。佐々木敦が『批評とは何か』における音楽批評の部分だけ「音楽批評の困難」という項目から始めるのはそういうことなのだ。

「音楽について書くのはどういうことなのか」ということを、「良い音楽をやっていれば売れるわけではないJ-POP」というよくわからない音楽と一緒に考えてみたいのである。