川本真琴『The Complete Singles Collection 1996〜2001』と『音楽の世界へようこそ』


ブログを書いていない間も「音楽について書くこと」について色々考えていたのだけれど、やっぱり不毛な作業だという印象が拭えない。歌詞や背景や声や歌唱法や演奏や発言やコードやテクノロジーや譜割りなんかについて、明確に「他の全てを差し置いて“音楽”を取り上げて書かれるべきこと」の存在する“批評”であれば、それはどんどん書かれるべきだしぼくはそれを読みたい。けども「J-POPについて考える」なんて見出しを打ったテキスト群の対象となる音楽は大抵「好きだから」とか「書きたいから」なんていうヨコシマな気持ちで書かれている(のだと思う)。そんな文章は音楽雑誌にも溢れていていい加減うんざりしてくるのだ。最初にアーティスト・音源の基本情報を掲載し、過去の実績を綴り、インタビュー発言や歌詞をなどを適宜引用しオチをつけて終わらせる。もっとも基礎的な文章作法。そういった文章に触れ始めた頃は気にならないが、数年も経つと嫌でもそのクリシェが目についてくる。誰のなんという音楽について書かれたものかわからなくなってくる。誰それさんが、こんな風に言ってた(書いてた)なんてことを確認するためだけにぼくたちは記事を読む。あるいはもう読まれなくなってしまったのかもしれない(音楽について書く人間について語られることは、少なくともぼくの知っている“音楽好き”コミュニティの中でもかなりまれだ)。読まなくなってしまった人間は、こんなことについて考えない。考えるのはその不毛さに足を踏み入れてしまう、残念な人たちだけなんだ。「あー。これはいつかどこかで引用するかもしれないな」とかつぶやいて。

ちなみに、これからあなたが読む文章はほぼ100%上記に該当するフォーマットで書かれている。ぼくは自分で投げたブーメランを自分でキャッチし、そこから始まる何かについて書いていこうと思う。書いている人間はいつだって「自分の文章は一番(とまではいかなくともそれなりに)面白い」と信じているものなのだ。

とまぁ最初から明らかに不必要な蛇足から始まるのだけれど、“批評”ではない文章にはこういった蛇足・脱線にこそ何かが宿ったりするとぼくは考えているからやめるつもりはない。坂口安吾橋本治坪内祐三小田嶋隆を尊敬していると書いたら、少しは伝わるだろうか。そして、いつかは彼らに近づけるだろうか。

さて、川本真琴の新譜とベスト盤を買った。これがすごく良かったので今回はその話を書く。どちらも全国のレコード店で品切れが続出しているみたい。特にインディー作品は、製造枚数がネームバリューに対してびっくりするほど少なかったりするので、どの程度の売り上げかはわからないけど、もっと売れていいCDだと思うのは確かだ。

ぼくが川本真琴の楽曲を知ったのは1997年ごろで、小学5年生だった。ご多分に漏れず「るろうに剣心」の主題歌がきっかけで代表曲「1/2」を知り、「ミュージックステーション」に出演し同曲を歌う彼女をぼんやり眺めていた。


(この動画はミュージックステーションのものじゃないかも)

ステージ中央でアコースティックギターをかき鳴らす彼女。曲はサビで最高潮を迎える。

「唇と唇/目と目と手と手/神様は何も禁止なんかしてない/愛してる」

歌詞は「あたしまだ懲りてない/大人じゃわかんない」と続く。小学5年のぼくでさえも、彼女の歌から「おれは大人じゃないからよくわかんないけど、これはたぶんキス以上にすごいことを歌っているのだろう」ということを感じ取っていた。まだセックスという単語の意味すら知らない頃のエピソードであり、歌詞のみでなく声やパフォーマンスも込みでそう感じていたのだろう。

数ヶ月に一回送られてくる、進研ゼミのPR漫画に出演する小学生カップルはきっとやっていないであろう「何か」。セクシャルな欲求ではなく、非日常性だとか、得体の知れないものに対するぼんやりした憧憬。はっきりとした自覚はないが、意外と自分にとっての原体験として記憶されているのかもしれない。

高校一年生の時、クラスメイトにモウリさんという女の子がいた。失礼な言い方だが、可愛くも可愛くなくもない、普通な感じの子だった。ぼくは彼女とすごく仲が良いわけではなかったが、お互い個人ホームページを持っていた(まだブログが流行る前の話だ)こともありたまに彼女の日記を見ていた。

基本的にその日記はどこへ行った、何を食べたといった他愛もない内容だった。のだが、ある日を境に突然不登校になってしまい、遂には高校を辞めてしまった。詳しい理由はわからない。ただ、同時期の日記には、彼女がバイト先で年上の男の人に恋をしており、ついにキスしてしまったという内容が書かれていた。
重ねて失礼ながら、ぼくは彼女にまったくそういう(≒性的なことをするという)イメージを持ちあわせていなかったので、予期していなかった「キスしてしまった」という告白に対して、本当にびっくりしてしまった。虫が手のひらで動いたり、犬に舐められたりするような、からだが思わずぞわっとするような感覚。

セクシーな格好をして、下ネタを連発する女の子がいたとすればその子は「エッチな子なんだなぁ」と認識されるのだが、その“エッチなこと”が示す内容は実際に体験するまでよくわからないのである。

では、あの感覚はいったい何だろう。
その答えが知りたくて、ネットで女の子が書く“恋人とのセキララ恋愛日記”をひたすら読み漁ったことがあった。「会えなくてすごく寂しい」だとか「今日はいっぱいキスした」だとか、大半は似通った内容である。
なのに“実際にそれをやった人がいる”という事実と生々しさ(だと自分が思っていること)がぼくを打ちのめす。

ベスト盤=活動休止までの川本真琴を聴いていると、そんなバカバカしいことを本気で考えていたことを思い出すのだ。いわゆる“性春”ってやつだが、オリコンにチャートインするようなメジャーな音楽かつ女性でそういう歌をうたっている歌手は今でも珍しいと思う。

(この辺りについてはやはり時代背景というか、岡崎京子『Pink』や宮台真司と「まったり革命」についての話を始めたくなる。けれど、ぼくらが生きている2010年というのはもはや近代的な規範意識などどこにもなくて、知り合いの女の子がフツーに手首を切ったり「お金ないしなー」と風俗で働いたりする時代である。それをして「真面目っぽいあのコも実は…」なんてストーリーはあまりにもチープなのでやめておく。強いていえば「みんなが夢中になって暮していれば/別になんでもいいのさ(Fishmans/幸せ者)」の世界なんだと思う)

1stアルバムリリース後に発表したシングル「桜」を再生する。
性急にかき鳴らされるアコースティックギターと、息継ぎする暇をほとんど与えずに連発される歌詞。ながら聴きではほとんど聴き取ることはできない。

曲のスピードに自分を追いつかせようとあたふたしていると、すぐにAメロの2パート目に行き着く。
「かたっぽの靴が/コツンってぶつかる距離が好き/ねぇ/キスしよっか」
この「キスしよっか」にやられてしまうのだ。全体的につんのめり気味な歌が一瞬ブレイクし、そっと放たれる言葉。
さっきからグダグダと一体何を書いているのだろうという気持ちでせつなくなってくるが、本当にどきっとしてしまうのだから仕方ない。

「キスしよっか」というワード自体は、それを体験しようがしまいが打ち込むことができる。歌詞カードを改めて読み返してみても、基本的に「王道J-POP=ラブソング」の域を出ているわけではない。
フィクションであれノンフィクションであれ、そのワードに言葉や動作、雰囲気といったディティールを加えることで自分が体験しているかのような深みを与えることが、創作におけるキモの部分だ。

その“キモ”さえ押さえてしまえばどれだけ陳腐なストーリーでも、なぜか感情を動かされる“強度”が備わる。一昔前に流行った“泣ける映画”をどれだけありがちでバカバカしく感じたとしても、映画の終盤に気がつけば泣いてしまっている自分が存在する。ありがちだろうと何だろうと、自分に向けられたいま・ここでは一回性を帯びてしまうのだ。

その“キモ”とは、おそらく個性を追求した上で生まれるのではなく、それこそ小学5年生にもわかる王道を歩んだ先にあるのだろう。「キスをした」ではなく「キスしよっか」に生まれる差異。こうした王道の快楽に身を任せることがJ-POPを聴く愉しみだとぼくは考えている。

ちなみに、新譜である『音楽の世界へようこそ」の楽曲には一切こうした要素がみられない。ダークなオルタナ楽曲を連発した後、穏やかながら粘っこいブルース方面へと舵を切ったCat Power、あるいは彼女と親交の深い七尾旅人豊田道倫寄りの日本人SSW的な、それまでと全く違った音楽になっている。

まぁ、「いつまでも記号的な“女の子”を押しつけないでよ」ということだろう。なんせ9年ぶりの個人名義作品だ。ぼくも上記のようなことを女の子に話しまくってそう言われた経験がある。
PVにもなっている「アイラブユー」という楽曲がとにかく素晴らしいのだが、『音楽の世界へようこそ』はこれまで書いてきたJ-POPとは少し違った視点からの楽しみ方が必要になってくる。
それを書くと二倍の長さになってしまうので、次の機会に残しておく。