グラウンド・ゼロには行ったことがない

そういえば、ぼく(ら)はアメリカで同時多発テロのあった2001年に15歳だった。塾から帰ってきてテレビをつけると、ビルに飛行機が突っ込む映像が何度も何度も流れていた。「ああ、これは戦争になるんだろうな」というのが当時の率直な感想だった。

だからといって、何か行動を起こしたわけでも思考を巡らせたわけでもない。当時の日本は不況の真っ只中だったし、大学生は就職難だったし、ぼく自身も高校受験に追われている毎日だった。
それまでの時代と違った点があったとすれば、ぼく(ら)は学校で社会の時間に「反ベトナム戦争・反安保の学生運動があったけど失敗した」だとか「テレビで中継される湾岸戦争の映像はゲームみたいに映った」だなんてことを教えられていた、ということである。戦争が起こっても、実際に街を焼かれなくなってから60年が経過した。その間に戦争を「リアル」なものとして反対することも、戦争を「リアル」じゃないものとして徹底的に無視することも、既に経験されてしまっていたのだ。

そしてぼく(ら)を取り巻くあれこれも「リアル」に大変なことになっていて、戦争なんかよりもそっちを何とかするのが先だろう、と考えていたことを覚えている。
先日(これを書いたのは2009年11月中旬である)今さらながらチェルフィッチュ『三月の5日間』をDVDで初めて観たけれど、まさにあんな感覚だったと思う。「これからデモのシーンやりまーす」と言って舞台をぐるぐる回っているだけの二人組の感覚。世界は割と大変なことになっていて、その「大変なこと」をなんとかしようと活動している人達の存在も知っていて、自分も何らかの形で加担したほうがいいよなーと思いつつ結局何もしない。

DTP技術・インターネットを手に入れたぼく(ら)には、世界で起こった「大変なこと」が洪水のように伝わるようになっていた。「『大変なこと』をなんとかしようと活動している人達」の中には、洪水をかき分けて必死で何かを伝えようとしている人も含まれている。自分自身のことを伝える人もいれば、特定のテーマに基づいて伝えている人もいる。ぼく(ら)はそれを「あー。面白いなぁ」と思いながら、ぼーっと見つめている。あー。

再び世代論的な話に戻ると、ぼく(ら)が生まれた1986年の世代というのはロスト・ジェネレーション世代でもゆとり世代でも平成生まれでもなく、リーマン・ショック以後の新卒採用削減期にも(浪人・留年etcをしなければ)引っかからない、しいて言えば「全くレッテル貼りをされない世代」である。世界から言及されず、一切知覚されないかもしれないという恐怖。グラウンド・ゼロの外側をぐるぐるぐるぐると回り続ける不毛さ。とはいえ「ぼく(ら)は、ここに、いるよ!」と声高に主張したいわけではない。

むしろぼくが伝えたいのは「これが、ここに、あるよ!」ということである。
「リアル」や「大変なこと」は誰かによって伝えられない限り、世界から「なかったこと」にされてしまう。メディアというのはつまるところ、「なかったこと」と「あったこと」を繋ぎとめる橋のような存在なのだと思う。今はそれを、グラウンド・ゼロの外側に留まり続けながら雑誌という形式でやってみたいと思う。できるか、できないか、面白いか、面白くないかではなく、やるか、やらないか。ただそれだけである。ぼくは「やる」ことを選んだ。

この雑誌の中心点、すなわち、どういったものを志向し、どういう性格のものであるかということは、いっさい規定しない。真っ暗な情報の海にぼんやりと映る灯台のように「ここには音楽の情報があります」「ここは『何でもあり』をコンセプトにしています」といった基準となる座標軸がないということである。

勿論、そういったことが「ない」状態で統一するとそれはそれで「ない」が「ある」ということになってしまうので、「ない」というテーマ・コンセプトで統一されたコンテンツを提供するというわけではない。
からっぽの「メディア」というドアを開けてみても、そこには「なにもない」が「ある」空間が広がっているだけである。「ある」という状態をやめることはできないのだ。ぼくが言いたいのは「ある」ことをやめることができなくても、「ある」ことは簡単に・すごく短い期間で「ない」というフォルダに追いやられてしまうということだけである。去年最大のニュースは思い出すことができても、一昨年に起きた最大ニュースを即座に誦じることができるだろうか?言葉遊びじみてきたけれど、そうした様々な「ない」を「ある」に変換するメディアにしたいと思っている。

この雑誌を読んでくれたあなたは、その点について意識しながら読み進めてくれたらなぁ、と思う。
読み終えた一時間後には「この雑誌に何が載っていたか」なんて記憶の彼方に行ってしまうかもしれないけれど、この雑誌には「『ない』ということにされてしまっては困ること」しか載せるつもりはない。それが唯一の規定である。

せめてあなたの中だけでも、無数に散らばる「ない」を「ある」という状態のままにしておいて欲しい。