声のない人や、目と耳が聞こえない人は、どんな風に歌えばいいの?

<補助線1:2009年10月7日 PM 21:10>
 青年団リンク ままごと『わが星』という演劇を観に行く。結論からいえば、とんでもなく良かった。80分間鳥肌が立ちっぱなしという体験は、そうそうできるものではない。けれど、この作品を語る言葉を捜してはみるものの、なかなか見つからなかった。

これが本やDVDであれば誰かにあげてみてもいいし、バンドであれば次のライヴチケットを押しつけてみることもできる。けれど、既に終わってしまった、ある劇団の、ある時期の、ある作品について言葉の羅列のみで語ったところで、これを読んでいるあなたにどれほどわかってもらえるんだろうか。「その劇団の、その時期の、その作品」はもうとっくに消え去っていて、自分だけが見た流れ星の存在を証明しなければならなくなったような、そんな無力感に陥ってしまった。

<補助線2:2009年10月14日 AM 1:03>
 一週間ほど唸りながら考えた結果、「演劇でありながら演劇ではない」という部分が、ぼくに「とんでもなく良かった」と感じさせたのではないかと思うようになった。というのも、高校時代に演劇部にいた経験から、ヘンな喰わず嫌い的先入観があったからである。

 ぼくの知るかぎり、高校の演劇部には3つのパターンがあって

  1. オタク女子の溜まり場になっており、出来の悪いライトノベルのような劇をアニメ声でやる。役者志望というより、声優志望が多い
  2. 演劇経験のある顧問が脚本・演出・舞台美術をすべて手掛け、「高校生らしい」(高校演劇で上演される作品の大半は、高校が舞台である)お金を取れるクオリティの作品を上演する。年に一度ある全国コンクールでは、このタイプの部活のみが上位にランクインされる
  3. サブカル好きな少年少女が、小劇場の台本を買ってきて細々と上演する

というふうに分類されている。ぼくが所属していたのは2.の顧問が脚本・演出を手掛けないタイプのところで、代わりに自分たちで脚本を書いたり、演出をしたりしていた(ぼくは演出・音響をやっていた)。
 ぼくが演劇をイヤになってしまった理由は実にシンプルで、「それが演劇という表現手法を用いなければならない必然性は、一体どこにあるのだろう」という疑問に自分自身答えられなかったからである。映画のようにカットや舞台(装置)を自由に選ぶこともできなければ、人間の体を使うために小説のような想像力の飛躍による表現も難しく、また高校演劇人口の大半が女子生徒で構成されているため、老若男女の役を女子高生でカバーしなければならない。今でこそ「そういう条件を活かした作品を作ればいいんじゃない?」と思えなくもないが、眼前にめくるめく「自由」たちがぶらさがっているのに、そこから目を背けなければならない理由がどうしてもわからなかったのだ。学生が学生の役をやる劇なんて、「金八先生」だけで十分だ。そして、高校生のぼくらが武田鉄也の代わりを務められるかといえば、もちろんそんなことはない。

 あれから5年以上経った今も、その問いに答えることがぼくにはできないでいる。
それが演劇という表現手法を用いなければならない必然性は、一体どこにあったのだろう?

<補助線3:2009年10月21日 AM 2:23>

「ぼくらは無意識のなかで歌っているんだよ。それが意味をなすか、あとで見てみる。文法的に合っているかどうかは重要じゃない。その響きが気にいったらそのままにしておく。『歌詞がまったくわからない』と言われるかもしれない。でも、実際に歌詞を口頭で一言一句伝えてあげたら、みんなこう言うに違いない。『もちろん、そういうふうに聞こえていたさ。はっきりとわかっていたよ』なんてね。文章としては破綻していて、途中で終わっていたり、すぐ次に何かがつづきそうな感じ。でも、もし紙に書かれたものを読んだら、意味はちゃんと成立すると思うよ」
マイク・マクゴニカル著 伊藤英嗣/佐藤一道訳『マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン Loveless』(2009年、ブルース・インターアクションズ

マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン Loveless (P‐Vine Books)

マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン Loveless (P‐Vine Books)

 これは、イギリスの伝説的シューゲイザーバンド、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(以下、マイブラ)のフロントマンであるケヴィン・シールズが、自身の書く歌詞について語った際の言葉である。ぼくは彼らの代表作『Loveless』が大好きで、とくに寝不足・体調不良時に大音量で聴いては余計にそれを悪化させて楽しんでいたのだけれど、思えば歌詞について考えることがまったくなかった(『Loveless』にはバンドの意向で歌詞が掲載されておらず、日本盤にもライナーノーツがあるだけで、対訳も載っていない)。

Loveless』において、というよりもマイブラの歌は、けだるいノイズを全面に押し出したディストーションギターの後方でかき消されがちで、聴き取ろうと思ってもほとんど何を言っているかわからなかったという理由もある。「なにか意味のあるようでないようなことを歌ってるんだろうな」程度には考えていたが、本書の中で改めて「枕のように柔らかく彼女は触れる/彼女が思いきって踏みこもうとしなかった場所へ」(only shallow)だとか「キッス、キッス、キッス、サック、サック、サック」(slow)と書かれているのを読むと、好きな女の子のイヤな面を見て幻想が崩れてしまった時のような、なぜかがっかりした気持ちになってしまった。相変わらず大音量で聴くと、歌詞のことなんか忘れてしまい、ギターノイズの海の中で気持ち良くなってしまうのだけれど。

 音楽の良し悪しは歌詞の出来不出来のみに起因するものではなく、そもそも歌(詞)がなければ音楽ではないのか、と問われればまったくその通りで、ぼくがそれを読んだ・知ったからといって、マイブラを嫌いになるなんてことはない。音楽はただ流れ続ける。そこに歌詞≒物語が付随していても、それを読み取るかどうかすらも「自由」である。ぼくのように、勝手に別の物語を読み込む行為でさえ、許容してくれる。

高校を卒業したぼくは、音楽ばかり聴いていた。

<補助線4:2009年10月22日 AM 1:57>
『わが星』のストーリーをかなり大雑把に説明すると、主人公のちーちゃん(地球)の誕生と終焉を、ちーちゃんの家族とその(地球の)様子を観察し続ける先生と生徒、つまり「(自分、あるいは誰かにとっての)世界」の誕生から終焉までの歴史を同時並行的にリンクさせて描くことで表現するというもので、誰にでも経験のある(あるいは必ず経験する)「子供から大人への成長、そして死を迎えるその瞬間」という、極度なまでにシンプルな流れに沿って物語は進んでいく。しかし、冒頭で「演劇でありながら演劇ではない」と書いた通り、ぼくはストーリーそのものよりも、そのストーリーを描くための方法論にいたく感動してしまったのだ。

『わが星』は劇団スタッフによる「まもなく開演です。今から約4秒後に灯りを消させていただきます」、「本公演は上演時間「約80分」を予定しております。途中、4秒の休憩がございます。最後までゆっくりとお楽しみください。それでは今から約4秒後に上演を開始いたします」というアナウンスから既に始まっており(このようなアナウンスは作中で何度も流れ、時間の経過が強調されている)、以後終幕まで1小節に4拍ずつ、時報のようなクリック音が一定のリズムで正確に時を刻み、鳴り続け、台詞や動作、暗転や明転などのタイミングを示す「きっかけ」もすべてこのクリック音に沿って行われている(作・演出の柴幸男と音楽を担当した口口口の三浦康嗣が、ベースラインやビートなどをDJのように抜き差しする「演奏」としてクレジットされており、リアルタイムでそれを行っている)。
与えられた時間は80分。これより長引くことも短くなることもない。主役はあくまでも時間であり、ストーリーではないとぼくは思う。

 作・演出の柴は

「パクリというか、舞台からインスピレーションを受けて舞台にすると、だいたい駄目なんですよ。駄目ってことはないですけど、元の作品を越えられなかったりするので。だから、舞台じゃないところをよく見て、これ面白いなっていうものを……別のジャンルからだったら、舞台になった時点でそれはもうパクリじゃないので。一回消化して出てきた違うものですね」
cinra magazine vol.13インタビュー 戯作者 柴幸男

(中略) またふたつ目にストーリーではなくプロットに興味があるからだ。
ここで言う「プロット」とは物語が持つ構造、図形、模様、のようなものを指す。
井上ひさしが言うところの知恵ある仕掛け。
ストーリーが表面化して展開するものならプロットは潜在的に点と線を紡ぐ。そして何かを形作る。
以前は否定的だった「ストーリー飽和論」に現在はやや賛成だ。
もうパターンは出尽くしたのかも知れない。
しかし悲観はしない。むしろ優れたストーリーを上手く使えばいい。
そのかわり、新しいプロットの発明こそが劇作家にとって必要だと思う。
プロットをどうやって考えるかは人それぞれだろう。
いきなり完成図が浮かぶかもしれないし、稽古場で偶然出来上がるかも知れない。
見たことのないストーリーを作ろうという努力が結果、新しいプロットを発明することもある。
そこで自分の場合はあるアイデア・不確定な図形をとことん突き詰めてみる、である。
ストーリーは放棄する。というよりかは常にプロットに先行させる。
本来、ストーリーの後を静かに追いかけるプロットに物語を紡がせる。
そこから今までになかった物語を立ち上げようというたくらみである。
柴幸男Blog casette conte 現代演劇暴論14「『あゆみ』はいかにして作られるのか9」

という発言内容から、単に物語を書いて上演するだけでなく、その表現手法にかなりのこだわりを持っていることがわかる。過去の作品を見ても、工場のベルトコンベアーで流れる製品のように三人の女優が、スポットライトの当たった場所を入れ替わり二人の役を演じる『あゆみ』や、5人家族を台詞の多重録音によって同時に演じる一人芝居『反復かつ連続』、台詞はおろか、動作までを別の場面にコピー&ペーストするサンプリングやループ、スチャダラパーTokyo No.1 Soul Setといった、韻を踏むことに固執しない、日本語ヒップホップの影響を受けた台詞回しなど、主に「音楽」の各ジャンルで使用される手法を用いている。そして、今回の『わが星』ではそれらがこれでもかと言わんばかりに投入された、現時点での集大成とでもいうべき作品だ。

 なかでも際立っていたのが、「韻を踏むことに固執しない、日本語ヒップホップの影響を受けた台詞回し」である。
 2009年1月に「toy」というユニット名義で上演された『ハイパーリンくん』という作品でも同様の手法が用いられているが、こちらではリズムを手拍子や足踏みで取るのみであり、「ラップの方法論を取り入れた台詞回し」でしかない。しかし、『わが星』ではそこに柴と三浦が演奏する「音楽」のビートが刻まれ続ける。地球に見立てた円形の舞台上を役者たちはぐるぐると回り続け、紡がれる言葉は時として聞き取れないこともある。けれど、それでいいのだ。だってもう、これは「演劇」ではなく「音楽」だと思って観ているから。最後にちゃんと辻褄が合えば、なんの問題もないのである。

物語の全編に渡って、数えきれないほどサンプリング/ループされる、ちーちゃんの誕生日のシーン。そこで観客が感じるのは、コピー&ペーストで切り刻まれた物語構造への困惑でもなく、同じシーンが繰り返されることの退屈でもなく、家に置かれる家電技術の進歩や隣人の死の話題といった、非常に細かな言葉の差異、そして途切れることなく流れ続けるクリック音からからくる、時のゆらぎ=グルーヴの快楽である。一度グルーヴが動き出してしまった以上、もう後戻りすることはできないし、その終わり=死は必ずやってくる。終わりがやってくることがわかっているにも関わらず、グルーヴは絶対に有り得ないといわんばかりに繰り返される。ぼくらに許されているのは、それを惜しみながらノりまくることだけである(物語が終盤に差し掛かり、音楽が盛り上がってきた頃にふと音響卓を見ると、柴・三浦両氏がノリノリで「演奏」しているのが見えた)。地球の終焉を、ただ黙って見守り続けることだけである。

<補助線5:2009年10月22日 PM 14:36>
 改めて、冒頭の問いに戻ってみる。

それが演劇という表現手法を用いなければならない必然性は、一体どこにあったのだろう?

 ぐちゃぐちゃな方向に引いた補助線とそれを書いた時間を記録し、いくつかの方面から『わが星』の魅力を書いてみても、それは垂れ流される時間およびぼくの思考の記録でしかなく、まったく説明しきれた気がしない。また、CDやDVDからなる複製芸術は、再生/停止を自由に選択でき、実質的にその観賞「時間」は無限である。肉眼で確認することのできる星の光は遥か昔に放たれた光であるように、「その劇団の、その時期の、その作品」がもちえるアウラの快楽は、それが行われている劇場でその声を、動きを確認しない限り、感じることはできない。何重にも絡み合った物語とグルーヴを表現するためには。映画でも小説でも音楽でもなく、演劇というスタイルが、必要だったのだと思う。

 それに対してあえて言葉だけで立ち向かうだなんて、たとえば目と耳と声を失った状態から歌い始めなければならないような、とんでもない事態だと思うのだけれど、「それ(作品)」が提示された以上、迎え撃つ側としてはやらなければならないのである。と思う。