きょうの備忘録

11月3日
三省堂書店本店で大友良英「ENSEMBLES」を購入し、秋葉原にある廃校の屋上で行われた「ENSEMBLES'09 休符だらけの音楽装置展」クロージング・ライヴに出かける。

・内容を言葉で説明するのはもはや不可能なので、URLとリリース文章を貼っつけて終了。

公式サイト

大友良英公式ブログ。書籍化されるほどの面白さ

写真たくさんの感想ブログ

・ENSEMBLES'09 休符だらけの音楽装置展クロージング・ライヴ
■11.3(tue) 16:00開場/16:30開演 
会場  旧千代田区立練成中学校(千代田区外神田6−11−14) 屋上
料金 当日のみ 2000円
出演 大友良英、伊東篤宏、梅田哲也、Sachiko M、堀尾寛太、毛利悠子、山川冬樹(予定)
スペシャルゲスト:カヒミ・カリィ熊谷和徳

新作インスタレーション「休符だらけの音楽装置」は、旧中学校の巨大屋上運動場で大友良英+伊東篤宏+梅田哲也+Sachiko M+堀尾寛太+毛利悠子+山川冬樹らによって制作された様々な音楽装置が互いに影響を与えあい、都市の音の中で響き合いながらアンサンブルを奏でます。

雨風や直射日光を受けながら、随時更新されるそれらの音楽装置は、日々のサウンドスケープをも全く別のものに変化させ、聞くという行為がいかにその場の環境と密接に関わり、複合的に知覚されるものか気づかせてくれるでしょう。

・今年の夏に、原宿のVacantというイベントスペースでやってた展示にも足を運んでおり、こちらはペン大Aさんがオープニングライヴを絶賛していたので、行ってみた次第。

・クロージングライヴには、ゲストとしてカヒミ・カリィとその旦那さん?(タップダンサー)が出演。

・会場には、いくつもの(これまた言語化がむずかしい)音楽装置が並べられており、それぞれの場所で作者が気まぐれに演奏を行っているというもの。

・っつーか伊東篤宏ってoptrumhttp://www.japanimprov.com/aito/aitoj/index.html) の人かあ。ライヴ一回観たことあるけど、ちょうかっこよかった。ががががが。ぴーーとかいって。ばりばりばりとかいって。

・メインである(?)大友良英カヒミ・カリィのライヴも、なんとなーくやってきて椅子に座り、なんとなーく始まって、なんとなーく客が集まって観る、という形式。客層はちびっこからおじいちゃんまで様々で、全部で400〜500人ぐらい来たっぽい(大友氏のブログによると、1000人以上来たとか)。平均20代後半ぐらい。

・というわけで、「どうせサブカル(笑)な人たちがよくわかってないものをありがたがるイベントでしょ?」なんて思ってる人は考えを改めるように。

・(だからってロキノン少年少女みたいなのはいなかったけど。彼/彼女らがもうちょっとロキノン系以外も聴いてくれれば日本の音楽業界も素敵になっていくと思う!!!よ!!!)。

・大友氏のギターは単純なアルペジオなのに、メロウすぎて脳みそとろーんとしてくる。

・どんなノイズ嵐の中でも「声=歌」を成立させてきたカヒミ氏の歌声(これはすごいことですよ)は、透きとおりすぎて、高熱が出たときのようにこれまたぽやーんとなってしまった。

・30分ほどの短いライヴで、もう2000円の元は取れてしまった。以下は会場で感じたことをつらつらと。

・原宿での展示会(数十台のポータプルレコードプレイヤーを全て違うリズム・音・タイミングで鳴らすという内容)もそうだったけれど、「聞くという行為がいかにその場の環境と密接に関わり、複合的に知覚されるものか気づかせてくれるでしょう」。これに尽きる。本当に。以下この話しかしませんよ。

・今ぼくはこれをトライセラトップスを聴きながら書いているんだけども、この「音楽」を構成している要素はギター・ベース・ドラム・歌声の四つで、これをしてぼくは「ロックバンド編成によるポップ音楽だなぁ」と認識しながら聴いている。

・結局↑の文章を書いてからすぐに寝てしまった。

・寝てしまって、職場に行かねばならない時間になってしまった。ので、今は空調の音と外でやっている工事の音を聴きながらこれを書いている。

・「じゃあ、<ロックバンド編成によるポップ音楽>と<空調の音と外でやっている工事の音>の違いは一体何だろう?」と考えてみるけれど、全くわからない。「前者と後者は違う<音>でどっちが好きかっていう話にしかならないんじゃないかな」と思う。

・というのも、「<空調の音と外でやっている工事の音>は普段わたしたちが<音楽>だと感じていないだけであって、そう感じてみようと、楽しもうとしてみると、素敵な(素敵じゃないかもしれないけど)<音楽>に生まれ変わるのです。あなたの中で」という言説が生まれてしまった時代の中に、ぼくらは生きているからである。

ジョン・ケージ4分33秒」が生み出してしまった、音と知覚の呪い。無音にすら「音楽」を発見してしまう、ジョン・ケージ病。

・「ジョン・ケージ病」をわずらってしまったぼくらが会場に着く。既にぼくらの耳は「たとえそれが<音楽>とは普段呼ばれないようなものでも、そう感じられるようにしておこう」という状態になっている。

・で、実際にそう感じてみたりする。

・水の中で硬貨が振動する音。歯車が回る音。蛍光灯をアンプに繋いで出る、バチバチという音。大友氏のギター。壊れたパソコン?から出るノイズ。Sachiko M氏が出す「ぴー」と鳴るだけのサイン派の音。会場に無造作に置かれたシンバルを、観客が叩いて生まれるリズム。

・とくにSachiko M氏のサイン波はすごく不思議で、本当に「ぴー」という音(聴力検査で聴くようなやつ)しか鳴っていないのに、「音楽」を聴いているのと同じように色々なことを感じてしまう。

・「この『ぴー』の微妙な差異を感じるのって、クラブでDJが鳴らすダンスミュージックを聴くような、あるいは女の子とセックスするような、そんな瞬間に近いのかもなぁ」だとか、「そう考えてみると機械を使って音を出すっていうのは、すごくフェティッシュな行為だよなぁ」だとか、「なんだか彼女の指先もすごくセクシーに見えてきちゃったなー」だとか。

・しょうもないことばっかり考えてるのね、と言われれば反論はできない。できないけれど、たとえばぼくが今職場でキーボードを打っている音(これを読んでいるあなたが聴いているはずの、生活音)をぼくは「音楽」だと思って聴いてはいない。しかし上記の「ぴー」は「音楽」に聴こえてしまう。それは事実として、ある。

・何が言いたいかというと、「たとえそれが<音楽>とは普段呼ばれないようなものでも、そう感じられるようにしておこう」という状況は、結構複雑かつ特殊な条件下でなければ、生まれ得ないのではないか、ということである。

・そして、その条件を生み出す・生み出せるというのは、結構すごいことなんじゃないか、ということ(4歳ぐらいの子供が、大友氏のギターを聴きながら風船を持って踊っている!!!!!!!!)。

・「聞くという行為がいかにその場の環境と密接に関わり、複合的に知覚されるものか気づかせてくれるでしょう」

・学校の屋上というロケーションによって、大友氏がギターを弾いている最中に「ぴー」や「バチバチ」が聴こえてくる、なんてことも平気で起こってくる。

・それは、さっきとは違う、新しい「音楽」として聴こえてくる。

・これは自分を含む「バンド」の「音楽」にも言えることで、自分の鳴らす音は誰かに「音楽」として感じてもらえているのか、そして楽しめてもらえているのか、その手法は本当に正しいのか。そもそも「<音楽>を鳴らす」ことが正しいのか。

・ということを改めて考える上で、素晴らしい展示会およびライヴだった。

・日曜まで高円寺のgallery45-8という場所で、関連する展示会をやっているそうなので、行こうと思う。

・夜、かれこれ7年ほどの付き合いのあるYさんと30分ほど電話。彼女に限らず、最近女の子から「わたしはこういう男の子を振った」話を聞く、あるいは「こんなメールが送られてきて、ほんと困ってるんだよね」という文面を見せられると、「ぎゃあああそれオレだあああああ」という暗澹たる気分になる。

・「『君が俺のことを一度も必要としたことがないっていうことが、よーくわかった』なんて言われたってね。それが今のところの結論なんだから、わたしにはどうしようもないし」

・これまた彼女に限らず、そして恋愛の話以外でも、みんなそれぞれちゃんとした考えを持っていて、それを聞くといつもなるほどなーと思う。その一方で話を聞くだけの、からっぽな、何も考えられなくなっている自分がいたりして、それはいけないよなー自分の言葉を持たないとなーと反省。反省したまま就寝。

・やっと自分の中で「女の子」という存在を相対化できたような気がする。

・(そしてその最中もずっと気にかかっているのが、「昔の君はもっと、私に刺さる言葉を使えていたはずなんだけどな」というある人の言葉である。人づてに聞いたから正確かどうかはわからないけれど)

・Yさんといえば、以前after the greenroomのギターボーカルやまみ氏も知り合いなようで、やまみ氏が言うには「Yさんの朗読(働きながら役者をやってるんです)を花のようにのボーカルの人が観に行ってて良かったって言ってたよー」とのこと。色々つながるものですね。いやはや。