ゆらゆら帝国が解散した。

2010年3月31日。それは何の前触れもなく、唐突な形で公式サイトにて発表された。

http://www.yurayurateikoku.com

はっきりいって、昨年に頻発したどんな訃報よりも驚いた。誰が好き誰が嫌いの話ではない。ぼくは彼らを“誰かが死ぬまで続ける”タイプのロックバンドだと勝手に思い込んでいたからだ。地元にありながら疎遠だった場所に行ってみたら、商店街がなくなって知らないビルがどかーんと立ち並んでいたような感覚。永遠の愛を誓った恋人や、10年経っても同じルックスで営業を続ける駄菓子屋のおばあちゃんや…と例えを思い浮かべた瞬間に「そう簡単に変わらなさそうなもの」がほとんど連想できなかった自分にまた驚きつつ、物事の終わりはいつだって理解不能なタイミングで飛び出してくる。

ぼくの印象では、彼らは日本のアンダーグラウンド・ロックで最も「とりあえず名前を出しておけば『お、こいつわかってるじゃん』的なスノッブ感に浸れる」バンドだった。そういう人をリアルでもネットでも山ほど見かけてきた。
要するに「もはや同じままでいてくれる物事なんか、なにひとつない」とかなんとか言っておきながら、ゆらゆら帝国が活動し続けていてくれたことに甘えていたのだろう。

公式サイトに掲載された解散理由を要約すると「最高傑作だと思える作品を作ってしまい、ライヴ面も作曲面でもこのバンドでもはやこれ以上のものを創作しえないと判断した」ためだという。けっして特殊な理由ではない、どころかラストアルバムとなってしまった『空洞です』は、結成から20年以上経過しているバンドではほとんどあり得ないような大傑作=最高傑作で、各種メディアからも大絶賛、アメリカの有力レーベルであるDFAとも契約済みであり、次回作への期待値が最も高いバンドの一つだったのだからもう始末に負えない。

せっかくの機会だったので、結成から『空洞です』までを総括したロングインタビューが掲載されている、『ミュージックマガジン』2007年10月号(『空洞です』リリース前の発行)を部屋から引っ張り出して読んでみた。すると、この時点で上述の解散理由に近い話がざくざく出てきた(今手元にないので、あとで気になった部分を引用するです)。

バンド編成を解体し(『ゆらゆら帝国のしびれ』『ゆらゆら帝国のめまい』)、演奏の肉体性すら放棄し(『Sweet Spot』)、順説・逆説どちらかのベクトルから生まれるロック的カタルシスも禁じてしまえば(『空洞です』)、次はジョン・ケージが「4分33秒」でやってのけたような“音楽から音を抜くこと”に行き着くしかないのだとおもう。
そしてケージ自身が無響室でのエピソードを交えて後述している通り、それは不可能である。皮肉にもケージは、そのことによって「音楽の未来について心配する必要はない」と書いていたけれど。

ぼくはゆらゆら帝国の熱心なファンではなかったので(好きだったけど)、さしたる思い出もないのだけれど、『空洞です』の一曲目である「おはようまだやろう」は大好きだった。
リリース当時、付き合ってるんだか付き合ってないんだかよくわからなかった彼女と、なんとなくホテルに行ってそういうことになった翌日の朝、彼女がシャワーを浴びている時にぼんやり聴いていたのがこの曲だった。
上で書いたミューマガのインタビューで、ボーカルの坂本さんは「意味があるようでなかったり、何通りにも解釈できる歌詞を書きたい」といった趣旨の話をしていた。
歌詞を全文引用してみる。


ぼくらが起きる と彼らは眠る
ぼくらが眠りだすころ に彼らは起きる
地球の裏にはいる 友達 たくさん

夜空をかざる 星たちが消える
朝日がまたのぼること に彼らは眠る
地球の裏にはいる 友達 まだ見ぬ

夜をさがして ときめきを超えて
すべてをあきらめたあとで かすかに響く
ビートがノックをする 君の窓を

さあ
おはよう
まだやろう
おはよう
まだやろう

誰かが笑う 誰かが悲しむ
どこかで笑い合う声 どこかで悲しみ
地球の裏にはいる 友達

ああ もう 何も求めず 何も期待せず
全てをあきらめたあとで まだまだ続く
ビートがノックをする 君の窓を

さあ
おはよう
まだやろう
おはよう
まだやろう

抑揚のほとんどないボーカルと、意味の定まらない歌詞と、カタルシスのかけらもないギターと、ルートをなぞるだけかと思えば微妙にそうでもないベースと、中低音がほとんどカットされたドラムと、やたら甘ったるいサックス。
嬉しくも悲しくも切なくもならない、ぼんやりとしたうたものソウル。
たしかに、セックスの歌とも捉えられるし、生きることそのものについての歌とも捉えられる。寝不足と二日酔いと賢者タイム状態でぐちゃぐちゃになったぼくの頭では、とりあえず文字通りに「もう一回やっちゃうかなー」というしょうもない解釈をするのが精一杯だった。どうしようもなくぼんやりした歌を聴きたくなる瞬間というのは、たまにある。

ちなみに、ぼくが唯一行けた彼らのライヴ(今年2月のYO LA TENGOの来日公演だった)で運良くこの曲を聴くことができて、その時はなぜか涙が出た。その涙線をノックしたのは、ありがちな感傷からなのか、「すべてをあきらめて」しまう虚無感から来たものなのか、ぼくにはよくわからなかったが、その感覚は言語化をあえてしない、ぼんやりとした場所に置いておきたいと今でも思っている。

そして、もう一度、いつかどこかで、彼の歌う「おはようまだやろう」が聴けるであろう日を、ぼくは楽しみに待っている。
「できない」なんて、言わせない。

空洞です

空洞です